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このページでは、鋳造シミュレーションに関係する
技術的な背景や、基礎知識を紹介しています。

少しずつ、内容を増やして行きますので、時々
思い出されたらご確認ください。(2018年2月14日)

遠回りになりますが、広い範囲で鋳造の技術の
紹介もしていきます。その方が分かりやすいです。
「温故知新」、先人の知恵に学ぶところ、大です。

鋳造シミュレーション技術 ●鋳造の技術史
に分けて解説しています。
このページは「鋳造の技術史」です。
(日本鋳造工学会、鋳物の科学技術史研究部会)
●「鋳物の技術史(人物編)」も編集中です。

1.鋳物の技術史

金属は、常温・常圧ではほとんどが固体で、展性や延性に優れ、光沢があり、電気・
熱をよく導き、削ったり、孔をあけるなど、機械で加工しやすい性質を持っています。
銅は古くなると表面が酸化しますが、新しい状態では、きらきらした金属光沢を持ち、
金や白金は酸化されにくく、いつまでも輝いているので、貴金属と呼ばれています。

(1)金・銀・銅
金銀銅が、人類が初めて意識して接した金属かもしれません。その中でも、特に
金は、川床に輝く、小さい黄金の粒のように比較的純粋な状態で地上近くで発見
された自然金で、集めて叩き伸ばして、腕輪などの装飾品が作られました。
自然銅や隕鉄を拾い集めて、金と同様、鍛圧成型の過程を経て利用されていま
したが、やがて火を使って鉱石を精錬し、鋳型に流し込むようになりました。(鋳造)

金鉱脈は世界に広く分布しますが、日本では銀のほうが金より主役でした。(銀座)
世界の貿易決済でも、メキシコの銀が使われていました。銅の精錬はインディアンも
していたようです。木炭で加熱すると700℃位の温度で、容易に還元できました。

(2)青銅の発明
銅に少量の錫を混ぜると、銅よりも硬くて有用な合金になることが、B.C.3000年より
少し前に発見されたようです。銅の融点は1000℃以上ありますが、錫を混ぜると
融点が下がり、700〜900℃で溶解します。流動性もはるかに良くなりました。さらに
鉛を5〜10%加えると粘性が激減し、込み入った鋳型に注ぎやすくなります。中国の
初期(商代、B.C.1600〜B.C.1000)では、坩堝(るつぼ)による溶解の記録があります。
漢の時代(B.C.206〜B.C.220)になると竪炉が使われていたようです。

(3)フイゴの発明(送風機構)
鉱石から金属を溶かし出すためには、高温を保つ必要があります。そのために
空気を送風しなければならないのですが、B.C.2000年頃にメソポタミアやエジプトで
フイゴに関する記録が残っています。やがて、足踏み式のたたらへ発達しました。
日本の弥生時代前期末(B.C.200〜B.C.100)には、メソポタミアや中国大陸では、
銅や鉄の溶解が活発で、炉は坩堝型から竪型炉へ。、送風は自然通風の利用から
始まり、革ふいごから箱ふいごへと進んでいたようです。そして、足踏み式の踏鞴
(たたら)が登場しました。この方式で、江戸時代まで続きました。

(4)炉と鋳型
粘土で作った古代の土器炉は、B.C.6世紀には石と粘土で作った製鉄炉になりました。
鋳型は、片面の開放鋳型から、密閉鋳型、組合せ鋳型、中子、蝋型と進化しました。
8世紀中頃の奈良東大寺の大仏鋳造では、日本初の竪型炉である、こしき炉に関する
記録があります。米を蒸す器(甑:こしき)に似ているので、こしき炉と呼びます。

鋳型は砂型と金型に大別され、砂型は粘結剤の種類や硬化法によって、生型、無機・
有機自硬性鋳型、シェル型、ガス硬化鋳型などに分類されます。粘結剤を使わずに
減圧して固めるVプロセス、マグネットモールド、凍結鋳型、石膏型、セラミックモールド、
蝋やワックスを使うロストワックス法、発泡ポリスチレンを使う、消失模型鋳型があります。
自動車関連鋳物のような、大量生産品については、高速化・自動化が進んでいるため、
ランニングコストで優位な生型造型法が有利ですが、小・中ロット生産の分野では、
Vプロセスの特徴とメリットが生きてくるということです。

砂型は近代に西洋から導入された二つの流れがあります。一つはフランス流の粘土の
成分が多い「真土(まね)型」、もう一つは、粘土の少ない釜砂(ホロ砂)を焼き固めた
イギリス流の「ホロ砂型」です。真土型は日本で古来から伝わる方法でもあり、細い粒
(100〜150メッシュ)の珪砂や山砂が用いられています。800〜900℃に焼成して使います。
粘土の主成分は、SiO2、Al2O3、そしてFe2O3です。奈良時代の記録が残っています。

中子には、削り中子、挽き型中子、模惣中子、川砂挽き中子、肉張り中子などがあり
製品の大小、肉厚、数量によって、中子の形状や抜け勾配が選択されます。日本の
工芸品に使われてきた、伝統的な蝋を使う蝋型には、蜜蝋や松脂が用いられます。

溶湯と鋳型表面との直接の接触を避け、焼着を防ぎ、鋳造品の鋳肌を平滑にするために
塗型剤が使われます。塗型剤の種類(砂型、Vプロセス用、焼失模型用、金型用等)が
あります。塗型剤の基材、無機燃結剤、、有機燃結剤、溶剤で分類されます。塗型剤の
基剤には、ジルコン(ZrO2・SiO2)、マグネシア(MgO)等の耐火性の粉末が使われます。

(5)鉄の誕生
青銅技術は、錫が高価なため、支配階級に限られていましたが、鉄の溶錬技術が
発明されたとき、金属の使用が一気に広まりました。最初は隕石の鉄が使われ、
やがて、砂鉄をや鉄鉱石を還元するようになりました。(700〜800℃→1000〜1150℃)
炭素を除いて、硬くて強靭な鋼にする技術や、焼入れ(熱処理)の技術が加えられました。
鉄器が始めてつくられたのは、B.C.2500年頃で、B.C.800年頃から、メソポタミア地方で
農具としてさかんに利用され出しています。B.C.200年頃、秦の始皇帝は鉄の農工具
作りに力を入れ、耕地を開拓し、民政を安定させています。

(6)弥生、古墳時代の鏡、江戸時代の魔鏡や柄鏡
法隆寺の南東、奈良県磯城郡田原本町八尾に鏡作神社があり、この鏡作神社を中心に、
鏡作麻気(まけ)神社、鏡作伊多神社、石見鏡作神社が散在しています。この地は秦姓の
人が多く、天日槍(あめのひほこ)の子孫と称する三宅連と関連の深い土地で、弥生時代
には銅鐸が作成され、近くの紫金山古墳では勾玉の模様のある鏡が発見されています。
このように、銅剣や銅鐸の鋳造が始まったのは弥生時代とされています。弥生時代に続く
古墳時代には鏡や各種の馬具が鋳造されました。平城京跡からは、和同開珎等の銭貨の
未完成品が出土しており、平安時代には東国においても青銅鋳物の鋳造品がみられます。

平安時代の鏡は唐の鏡を模倣したものから始まり、11世紀には和鏡と総称される、日本
的な鏡の製作が始まっています。

鎌倉時代、中世の鋳物師(いもじ)は、商工未分離の手工業者から組織化が進み、河内
から全国に散らばり始めました。(12〜13世紀にかけて鋳造された81口の梵鐘のうち、
約62%に当たる50口が河内鋳物師の作品だそうです。)室町時代は流通が活発化し、
城下町に定着して領主と特権を保証される鋳物師が出てきました。16〜17世紀は、宮廷
蔵人所の真継家による鋳物師の支配(免状を与える等)があったことが知られています。
鋳造関係の工人には、鉄と青銅を扱う鋳物師と銅を扱う銅細工(あかねざいく)がいました。
銅細工は、仏具や建築に関わる装飾品を扱い、彫金や鍍金(メッキ)も行っていたようです。

中世末期から近世にかけては、江戸、武州川口、京都、大阪、高岡、新潟県の柏崎等に
多数の鋳物師が住み、大きな生産地になっていました。需要が限られていたために、
新規の鋳物師の参入は禁止されていて、家業は男氏一人にのみ相続が認められました。

江戸時代の青銅の鏡の内、裏面の模様や凹凸が映し出される魔鏡が発見されています。
篦(へら)を使って、外型の表面に模様や文字が描かれますが、文字をはじめ、すべてが
逆さになっているので、この技法は大変な熟練を要します。貨幣には型押し、鏡には
江戸時代中期以降は、踏返しと呼ばれる型押しの技法が使われています。

(7)古代の鋳鉄鋳物の代表、鍋や釜
青銅と比べて鋳鉄鋳物の代表である鍋や釜は錆びやすく、すぐにリサイクルされるので、
残っている資料は少なくなります。中世においては、鋳物師が生産を担っていました。
鎌倉時代に入り、茶の湯の興隆に伴って、釜が鋳鉄鋳物で作られるようになりました。
なお、古事記に出てくる天児屋根命が日本で初めて鍋釜を用いたとも伝えられます。
鍋や釜の鋳造には、”枚”という独特の単位が用いられていました。

(8)鋳鉄佛、鋳鉄銭、梵鐘などに鋳物師の技術が使われています。
例えば、蝋の模型には、彫刻型、蝋挽法があり、型込め・焼き流しで鋳型を仕上げます。
梵鐘の竜頭などは木型が使われ、陶模という粘土で原型を作り、焼きしめた雄型と
それを鋳物土に押しあてて雌型を使う方法、中国の土に埋める地坑造型陶範法が
奈良の大仏には応用されています。仏像に関しては鋳込み後の仕上げが重要です。
京都の左京八条三坊、鎌倉の今小路西、堺の環濠都市に銭の鋳造遺跡が見られます。

(9)鋳鉄鋳物の発展
鋳物業は、常に火を使う職業なので、火事の危険性から城下町のはずれの風下の
立地が望まれました。鋳型の乾燥や炉のためにも、地面が湿っているような土地は
好まれませんでした。近世の鋳物業は、御鋳物師と呼ばれる親方の下に職人達がいて
たたら師が8〜12人ほど臨時に雇われていました。鋳物師の家は大きな敷地でした。

日本と欧米の鋳物業を比較すると、鋳物業の歴史は中国や日本の方が古くなります。
異なるのは、イギリスでは最初から鉄の大量生産、大量利用を目指していたことです。
日本の近世は、熱源としての木炭、鋳型に用いる川砂と粘土の確保が重要な課題で、
産地は鉱石の産地(主に中国地方)で、市場に近い城下町や港湾に集まっていました。
これはイギリスでも同じでした。しかし、イギリスの生産量は日本とは比較にならないほど
大量で、その結果、イギリスでは多くの森林が失われ、木炭製鉄は禁止された場所も
あり、イギリスの製鉄業は、ダービーによるコークス法の発明まで、木炭を求めて移動せ
ざるを得ませんでした。

鋳鉄鋳物の生産量が飛躍的に伸びたのは、たたら製鉄に代わり、産業革命の生んだ
コークス高炉によります。ねずみ鋳鉄が45%、球状黒鉛鋳鉄が20%、ダイカスト10%、
鋳鉄管10%。イギリス、バーミンガムの北西60kmにあるアイアンブリッジ(1779年)が
その象徴です。全長50m、橋高20m、幅7.2mで、世界遺産に登録されています。(成分は
C(炭素)3.25%、Si(ケイ素)1.48%、Mn(マンガン)1.05%、P(リン)0.54%、S(硫黄)0.037%)
一方、日本では、鉄は、大砲の砲身の鋳造から始まり、現代では、自動車用が42%、
一般産業機械18%、鋳鉄管8%です。日本でも、木炭を熱源とする小型の甑炉で生活
用品、梵鐘などが作られていましたが、江戸時代の末期のアメリカの開国要求を受け、
国防の必要から大砲の製造が活発になり、反射溶解炉(韮山の炉が代表例)、鋳鉄
溶解炉のキュポラ(長崎が初)が稼動するに到りました。幕末には、不景気によって
産地の中には困窮するところも出てきました。明治維新後は、従来の特権も失われ
(真継家も特権を失います)、鋳造技術も変化しました。鋳型は焼型法から生型法へ、
送風も人力のたたらから、蒸気機関、電力、モーターへ、原材料も和銑から輸入銑、
高炉銑へ、燃料も木炭からコークスに変化しました。製品も、日用品から機械部品が
中心になり、大都市や市場の近い東京、大阪、川口、桑名等が産地として栄えました。

鋳鉄は、ねずみ鋳鉄、または、白鋳鉄とも呼ばれ、Fe(鉄)、C(炭素)、Si(ケイ素)から
構成されます。微量のS(硫黄)、Mn(マンガン)、P(リン)も含まれています。2〜5%と
比較的高い炭素含有量があります。鉄のもう一つの加工法である鍛造は、鋳造とは
早くから分離し、軟鉄に刃になる部分だけ少量の鋼鉄をつける日本独特の方法を発展
させてきました。鍛冶師と呼ばれる職業で、鋳物師と比較して小規模でも可能でした。

(10)非鉄金属について
日本のアルミニウム合金ダイカスト生産量(約46万トン)の内、約95%はADC12です。
Ai-Si共晶に近い組織を基本に、Cuが1.5〜3.5%添加された合金で、鋳造性や機械的
性質に優れた、バランスのとれた材料です。アルミニウムの融点は約660℃です。


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